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東京地方裁判所 昭和34年(行)59号 判決

原告 国

被告 中央労働委員会

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告指定代理人は「被告が中労委昭和三十二年不再第三六号不当労働行為再審査申立事件につき昭和三十四年三月十八日なした命令を取消す。訴訟費用は被告の負担とする」との判決を求め、その請求の原因として、

一  原告は杉山巌を昭和二十一年五月二十七日在日アメリカ合衆国軍隊の役務に服させるため雇入れたが、昭和三十年十二月十九日附で解雇した。

ところが、杉山が組合員として所属する全駐留軍労働組合(以下、全駐労という)神奈川地区本部相模支部(以下、相模支部または組合という)は右解雇をもつて労働組合法第七条第一号の不当労働行為であるとして、その雇傭に関し国(原告)の事務を管理する神奈川県知事を相手どり、昭和三十一年十月一日神奈川県地方労働委員会に救済の申立をなし、同委員会から昭和三十二年十一月二十七日附で右申立を棄却されたので、これを不服とし、同年十二月十六日被告に再審査の申立をなした。

しかして、被告は右申立を中労委昭和三十二年不再第三六号事件として審査し、昭和三十四年三月十八日附で本判決末尾添付の命令書写記載の理由に基き、初審命令を取消し、神奈川県知事に杉山の解雇取消並びに解雇当時と同等の職務、待遇の保障される職への復帰及び昭和三十年十二月十九日から復職に至るまでの間に同人が支給されるはずであつた諸給与相当額の支払を命じる旨の救済命令を発し、その命令書の写は昭和三十四年三月二十一日同県知事に送達された。

二  しかし、原告が杉山巌に対してなした解雇は、同人との、いわゆる間接雇傭を継続するときは、アメリカ合衆国の保安に危険があるという理由によるものであつて、もとより杉山の組合活動を理由とするものではない。すなわち、

1  杉山は日米両国間に締結された「日本人その他日本国在住者の役務に関する基本契約」の附属協定第六十九号(以下、附属協定という)第一条a項の定める保安基準(2)号の「アメリカ合衆国の保安に直接有害と認められる政策を継続かつ反覆して採用または支持する破壊的団体(または会)の構成員に」該当すると認定され、これを理由に解雇されたものである。

2  しかし、右解雇の手続は在日アメリカ合衆国極東陸軍(以下、軍という)司令官が独自の調査に基き、かつまた保安審査委員会の審議を経て前記保安基準該当の事実を確認し、昭和三十年十月四日調達庁長官にその旨を通知し、同月十八日同長官から右認定を承認する旨の意見を徴したうえ、下部機関に杉山の解雇を指令し、これに基き、同人の所属する軍の横浜技術廠の日本人人事担当官が人事処理要求書を作成して、司令部横浜地区労務連絡士官に回付し、同士官が右要求書を神奈川県知事の補助機関たる神奈川県相模原渉外労務管理事務所(以下、相模原労管または労管という)所長に交付して杉山の解雇を要求し、同所長が杉山に解雇の通告をなしたものであつて、労働組合ないし組合活動に対する格別の意図のもとに進められたものではない。

三  さような次第で、被告が発した前記救済命令は重大な事実の誤認に基く違法なものであるから、原告はこれが取消を求めるため、本訴請求に及んだ。

四  仮に、右解雇が不当労働行為にあたるとしても、相模原労管所長は杉山巌に対し昭和三十三年十月十一日附で同月十二日限り解雇する旨を通告したから、前記救済命令は少くとも右解雇と牴触する限度において違法であつて、取消を免れない。

右解雇の経緯を明らかにすると、

1  杉山は前記第一次の解雇当時、軍の横浜技術廠相模本廠在庫統轄部運営課事前編輯・最終綴込係(ヨコハマ・エンヂニヤー・デポー、ストツク・コントロール・デイビイジヨン、アドミニストラチイブ・ブランチ、ブレエヂツト・アンド・フアイナル・フアイルス・ユニツト・同課作業単位第二)に所属し、特殊飜訳(スペシヤル・トランスレーター)の職種にあつたものであるが、右作業単位は、その後数次の組織変革の結果、昭和三十三年七月一日以降、総合補給廠技術補給局総合技術部補給処理管理室管理課文書統轄係(ゼネラル・デポー、アシスタスト・フオア・エンヂニヤー・サプライ・オペレーシヨン、ゼネラル・エンヂニヤー・デイビイジヨン、デイレクター・オブ・サプライ・マネヂメント、オペレーシヨン・サポート・ブランチ、ドキユメント・コントロール・セクシヨン)となつたから、もし杉山が右解雇を受けなかつたとすれば、右部課の文書統轄係に特殊飜訳として在籍したことになる。

2  ところが、右補給廠司令部は昭和三十三年八月十四日作業量減少のため日本人労務者に過剰が生じたとして、日本契約担当官代理を通じて相模原労管所長に日本人労務者の整理解雇を要求し、労務者の現在員から使用継続を必要とする人員を控除した整理人員を示したが、右管理課については、特殊飜訳一名、技術一名、計理士七名、事務員一名が整理の対象となつた。

3  しかして、当時右管理室には青山清亮が特殊飜訳として在籍したにすぎないから、同課につき特殊飜訳一名を整理の対象としたのは、も早や特殊飜訳という職種の使用継続を必要としない趣旨に出たものであることが明らかであつて、もし杉山が当時在職したとすれば、同課における特殊飜訳の整理人員としては都合二名が掲示され、杉山も当然整理解雇の対象となつたはずである。

4  そこで、相模原労管所長は同年九月三十日右青山を解雇したが、万一、杉山を復職させるべき羽目になつては、右人員整理の趣旨にもとることになるので、これに備え、同人の保安解雇が取消される場合を仮定して、同人に対し前記第二次の解雇の措置を講じたものである。

と述べ、被告の主張に対し、

1  杉山巌が昭和二十一年五月軍の在日兵站司令部技術課に入職し、昭和二十四年三月一日顧問(アドバイザー)に格付けされ、昭和二十七年横浜技術廠相模本廠在庫統轄部に転属したことは認める。

2  在庫統轄部の労務者が全日駐相模本廠労働組合に加入したこと、同労働組合が全駐労に統合され、相模地区駐留軍労働組合と合同して全駐労相模支部となつたことは認めるが、杉山が、全日駐相模本廠労働組合の職場組織結成につき活動の中心となり、また同労働組合の執行委員となつたことは否認する。杉山が右労働組合の金融委員、職場委員となり、また全駐労相模支部の支部委員、機関紙「はなの輪」及び「職場ニユース」の編輯責任者、ついで職場委員になつたことは知らない。

3  昭和二十八年三月収納課(インカミング・プロパテイ・ブランチ)で日本人女子労務者の同課責任者ステネツトに対する不満から紛争が生じ、その際ステネツト及び日本人監督鈴木光信の排斥が唱えられたことは認めるが、杉山が右紛争にあたり日本人労務者の抗議運動を組織化したことは否認する。仮に、その事実があつたとしても、表見するところがなかつたから、軍は勿論、日本人監督でさえ、これを知らなかつたのが実情である。なお、被告はステネツトにより日本人労務者岸節子が解雇され、これがため日本人労務者から右解雇の撤回が要求され、その結果右解雇が撤回されたというが、ステネツトは岸節子の失態に対する憤懣から解雇をほのめかす言葉を吐いただけで、格別解雇の手続を起したわけではない。また、日本人労務者から、これに関する苦情の申立を受けた在庫統轄部の責任者クロツカー中佐も双方から事情を聴き、岸に対する解雇の事由がないことを認めたにすぎない。

4  昭和二十八年七月日本人労務者井上時夫が勤務成績不良の理由で解雇されたこと、これに関する日本人労務者の署名簿が軍に回収され、杉山がウエストホール少佐から、その間の事情を聴取されたこと、杉山の臨時昇給が却下されたことは認める。被告は日本人労務者間に井上の解雇が右ステネツトの事件を理由とする不当なものであるとして、その撤回斗争が起つたというが、井上の解雇は同人が仕事上、非能率的であつたこと、勤務中居睡りしたこと、命令に服従しなかつたこと、注意を無視して、たびたび勤務中髭を剃つたことを理由とするものであつた。また、被告は杉山が署名簿に関する事情を聴取され、昇給を却下されたことをもつて、同人が右斗争の先頭に立つて活動したことに由来するかのようにいうが、事実に合わない。すなわち、右署名簿は井上の解雇撤回を乞う発起人名の記載のないクロッカー中佐宛の嘆願書で、実際には井上本人が作成し、杉山が軍の許可なく基地内に持込み、隠密に在庫統轄部の各課に持廻つていたところ、これに不審を抱いた出荷課(アウトゴーイング・プロパテイ・ブランチ)の日本人監督、三堀和親から照会を受けたウエストホール少佐の指示に基き、運営課の日本人監督、酒勾文四郎により回収されたものであるが、杉山は酒勾の調査に対し自分は右文書に関係がないとして事情を秘していた。しかるに、酒勾が井上につき調査した結果、杉山が前記のように右文書の基地内無許可搬入に当つたことが判明したため、同人はウエストホール少佐から、あらためて事情の聴取を受け、さらには酒勾が手続を進めた臨時昇給を却下されたものである。杉山が、その後執行委員となり職場組織の強化に活動したことは否認する。

5  全駐労相模支部の機関紙「はなの輪」の発刊に関する被告主張事実は、すべて知らない。なお、かような機関紙の基地内搬入は禁止されていたから、その記事内容のごときは軍において知る由もなかつたのである。昭和二十九年暮頃米兵の昼食時間に米兵一名が残留したことは認めるが、その米兵が杉山の動静を注目したことは否認する。米兵の残留は当時、米兵と日本人労務者との間に昼食時間の時差が設けられたので、これによつて生ずべき電話応待及び一般管理上の支障を避けるために採られた措置にすぎない。

6  昭和二十九年九月の特別退職手当要求ゼネストにおいて、杉山が各課の日本人監督に協力を要請したことは否認する。杉山がピケ隊の隊長をしたことは知らない。仮に、隊長であつたとしても、多勢に紛れた行動であつたから、軍が知る由もなかつたのである。

7  昭和三十年初頃からタイプ共同作業場(タイピング・プール)においてタイピストの作業量及び所要時間を記録したことは認めるが、それがタイピスト側からの苦情申立によつて廃止されたことは否認する。そもそも、右タイプ作業の記録は個々のタイピストの能力を測定するためになされたものではなく、軍所定の作業日報の作成上、半年内を限り作業完遂量を集計するためになされたものであり、従つて実施予定の期間を経過するとともに廃止されたにすぎない。

8  昭和三十年三月全駐労相模支部から特定の日本人労務者につき職種変更(格上げ)の要求が出されたことは認めるが、杉山が右要求達成のため積極的活動をしたことは知らない。同人が相模原労管との団体交渉ないし事務折衝に列席したことはないし、また、仮に同人が要求の資料作成に従事したとしても、軍は勿論、労管にも知れるはずはなかつたのである。

9  昭和三十年六月福井和雄が杉山の職場たる事前編輯・最終綴込係に他から配転されて責任者となつたこと。その後軍が労管に対し杉山の職務内容が貸付事務(ローン・クラークの職務)にすぎないことを理由に、同人の職種を顧問から計理士(アカウンタント)に格下げすべく要求し、これにつき全駐労相模支部と労管との間において団体交渉が行われ、労管が被告主張の経過のもとに、杉山の職種を給与額において千円低下する特殊飜訳に格下げしたこと、同人の同年十一月分の語学手当の支給が遅れてなされたことは認めるが、ヒガ中尉が右語学手当支給の申請を拒否し、これがため、その支給が遅延したものであることは否認する。そもそも、語学手当はその支給を受ける資格のある者が申請すれば、これに対する承認という手続をふまないでも当然支給されるものであつて、杉山の右語学手当の支給が遅れたのは、同人が日本人監督酒勾文四郎の再三のすすめにかかわらず、理由を構えて、自ら支給申請を遅らせ同年十二月七日頃に至つて漸く申請したためである。なお福井が配転されたのは転出する米兵の後任に補されたにすぎない。

と答えた。(立証省略)

被告指定代理人は主文同旨の判決を求め、原告の主張に対し、

一  請求原因事実中、一の事実は認めるが、原告が杉山巌に対してなした原告主張の第一次の解雇は、杉山の組合活動、これに対する軍の態度その他につき原告主張の救済命令の理由中で被告の認定したところとして説示された事実が介在した以上、明らかに労働組合法第七条第一号の不当労働行為である。

しかして、同じく四の事実中、原告が杉山に対し第二次の解雇をしたことは認めるが、右事実は右救済命令の理由中で被告のこれに対する判断として説示されたところと同一の筋合によつて、杉山の復職を不能にする事態とはいえないし、右救済命令も同人の復帰すべき職位を、その解雇当時の職種たる特殊飜訳に限定しているわけではない。

従つて、右救済命令には、なんら違法がない。

二  補足すると、

1  軍の労管に対する杉山の職種格下要求は職種及びその内容の適正化という軍の既定方針に基くものであつたにしろ、その実施要領にうたわれた現給保障を無視して一万円近くの減給となるべき職種変更を行おうとするものであつて、当時三百名位いた顧問中、他に類をみず、差別待遇も甚しいものであつた。

2  つぎに、杉山に対する第二次の解雇の前提には、同人が第一次解雇時から人員整理時までの三年間、特殊飜訳という職種にあつたであろうこと、同人が、その間数次にわたる軍の組織変革にもかかわらず、依然他の作業単位に転出させられなかつたであろうこと及び人員整理時、杉山の在籍を仮定された作業単位につき、特殊飜訳一名と指名してなされた人員整理が当時、右作業単位に特殊飜訳の職種で在籍した青山清亮に対する指名解雇ではなかつたであろうことの諸仮定が存在するが、右仮定は、いずれも単なる可能性の範囲に止まり、なんら必然性を内容とするものではない。というのは、杉山の第一次解雇時の特殊飜訳という職種は前記救済命令の理由中で明らかにされたとおり、同人の従前の職種たる顧問格下問題につき全駐労相模支部と軍との間でなされた妥協の結果であつて、必ずしも、その職務内容に合致するものではなく、むしろ、全駐労相模支部の職種変更による賃上げ要求斗争にもみられるように、賃金格付けの意味に比重があつたものであることからして、人員整理時まで三年間に、これが変更の可能性もあつた。また、その間数次にわたつて行われた軍の組織変革には必ず配置人員の転出入が伴つたが、杉山の第一次解雇時に在籍した作業単位も、その波及を受け、杉山の転出を免れ得なかつたかも知れない。さらには杉山の職務内容は、同じく特殊飜訳の職種にあつた青山清亮のそれとは全く相違し、杉山の第一次解雇後は特殊技術者、福井和雄が引継いだのであつてみると、杉山の在籍を仮定すべき作業単位につき、特殊飜訳一名と指定してなされた人員整理は、むしろ青山の担当職務が不必要となつたので、同人を指名して解雇する趣旨に解する余地があるからである。すなわち、杉山が人員整理の対象となる必然性があつたとはいえないのであるから、同人に対する第二次解雇によつて、第一次解雇救済の途が杜絶したわけではない。

と抗争した。(立証省略)

理由

一  原告が杉山巌を昭和二十一年五月二十七日軍の役務に服させるため雇入れ、昭和三十年十二月十九日附で解雇したこと並びに原告主張の手続的経過のもとに、被告が右解雇をもつて労働組合法第七条第一号の不当労働行為となし、原告主張の救済命令を発し、その命令書の写が昭和三十四年三月二十一日右雇傭関係につき国(原告)の事務を管理する神奈川県知事に送付されたことは当事者間に争がない。

二  そこで、原告が杉山に対してなした右解雇が不当労働行為を構成するものであるか否か、すなわち、被告が本件救済命令でなした判断に誤りがなかつたか否かについて判断する。

1  成立に争のない甲第二ないし第四号証、乙第一号証の七、同第二号証の十六(但し十五と一体)、同三号証の五、九、十五、同第六号証の二(但し一と一体)、同第七号証の二(但し一と一体)、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認める甲第一号証、同第十一、十二号証の各一、二、証人菊池水雄、同土屋鉄彦の各証言によれば、杉山に対する本件解雇は、同人が附属協定第一条a項の定める保安基準(3)号の事由、すなわち、同基準「(2)号の団体または会(「アメリカ合衆国の保安に直接有害と認められる政策を継続かつ反覆して採用または支持する破壊的団体または会」)の構成員と常習的または密接に連繋し、その程度がアメリカ合衆国の保安上の利益に反するものと認めるのを相当とするとき」に該当することを理由としたものであること(原告は杉山が右(2)号の団体の構成員に該当することを理由としたものである旨主張するが、事実に符合しない)、しかして、右解雇については、杉山の所属する軍基地の司令部としては全く関与するところがなく、その上級司令部が独自に入手した情報に基いて発議し、昭和三十年五月から同年十月にわたつて調査審議をしたものであるが、その間において保安解雇審査委員会に諮問するとともに、調達庁長官に保安基準該当の容疑の存在を通告して、その意見を徴する等所要の手続が経由されたこと、さらに、右委員会は審査上その対象たる労務者の組合活動その他アメリカ合衆国の保安に関係のない事項については一切考慮しない建前になつていること、また、調達庁長官は、軍司令官の前記通告に基き調査の結果、杉山が破壊的団体と想定される特定の団体の構成員たる特定人と親交があり、その団体の会合に、しばしば出席したことを探知し、これを根拠に軍司令官の認定を承認する旨の意見を示したこと、なお、杉山は、右解雇を不服とし、昭和三十一年一月六日軍司令官に訴願を提起したが、同年四月保安基準該当の認定を左右するに足る資料がないとして、これを却下されたことが認められる。

しかしながら、右認定における「破壊的団体または会」が具体的に、どの特定の団体を指すものであるかについては、原告において明示するところがないまま、本件全立証をもつてしても、ついに、これを認めることができない。もつとも、甲第二十二号証の一ないし五には、それぞれ、杉山が昭和三十四年十一月二十五日行われた神奈川県相模地区の安保改訂阻止のデモンストレーシヨンに日本共産党の腕章を帯びて参加した旨の記載があるが、仮にさような事実があつたとしても、それだけでは、この点の判断になんら寄与するところがないから、右甲号証は採用しない。さすれば、杉山につき前記保安基準に該当する具体的事実が存したものとは、なんらの疑も残さずに肯定されるものではない。この場合、いわゆる保安解雇に関する前記のような所要の手続が制度としては保安上の理由に藉口する不当な解雇を阻止することを目的とするものであることは、よういに理解されるけれども、その手続を経たからといつて、当然に保安基準該当の具体的事実が実存したと判断しなければならない事理は、なんら存しないのである。しかして、そのしかる以上、本件解雇が単に保安上の理由でなされたという一事により、直ちに右解雇につき原告主張のように不当労働行為の成立が否定されるものでないことは多言を要しないであろう。

では、進んで杉山の組合活動及びこれに対する軍の反応について審究する。

2  杉山の組合活動について

杉山が、いわゆる間接雇傭の駐留軍労務者として昭和二十一年五月軍の在日兵站司令部技術課に入職し、昭和二十四年三月一日顧問(アドバイザー)に格付され、昭和二十七年九月横浜技術廠相模本廠在庫統轄部(ヨコハマ・エンジニヤー・デポー、ストツク・コントロール・デイビイジヨン。以下、在庫統轄部という)に転属したこと、在庫統轄部の日本人労務者が昭和二十八年五月全日駐労働組合相模本廠分会に集団加入し、同分会が、同年十二月全駐労に統合され、昭和二十九年三月相模地区労働組合と合同して全駐労相模支部となつたことは当事者間に争がなく、成立に争のない乙第一号証の二、同第二号証の三(但し杉山の発言記載部分。後出の場合も同じ)、五(但し四と一体)、十(但し八と一体)、十二(但し八と一体)、十四(但し十三と一体)によれば、杉山は、昭和二十八年五月在庫統轄部の日本人労務者が前記のように全日駐相模本廠分会に加入するに先立つて行われた職場組織の結成大会において職場委員兼金融委員に選出されて昭和二十九年四月まで在任し、同年五月全駐労相模支部の定期大会において支部委員に選出されて昭和三十年四月まで在任し、同年五月には在庫統轄部の職場から職場委員に選出され、また、その間に、昭和二十九年四月右職場の組合大会において後記機関紙「はなの論」の編輯責任者に指名されて昭和三十年一月頃までその編輯を担当し、同年三月頃からは職場の日常的問題を取扱う週刊新聞「職場のニユース」の編輯刊行に従事したことが認められる。なお、前出乙第一号証の二、同第二号証の三、五によれば、杉山は、昭和二十八年八月当時在庫統轄部の職場から選出されていた執行委員粉河某が退任したので、同職場から他二名とともに選出され、かつ、その三者から互選されて、昭和二十九年四月まで事実上執行委員の職を行うことになつたことが認められる。もつとも、被告は杉山が、その間正式の執行委員であつた旨を主張し、右乙号各証中には、その旨の記載があるが、右認定のような選出方法が組合規約上承認されるものであることを肯認するに足る証拠はないのみならず、成立に争のない甲第十九号証によれば、組合から労管に提出された昭和二十九年三月十八日現在の組合役員名簿には組合の執行委員として杉山の名が登載されていないことが認められるから、右乙号各証の記載だけでは杉山が正式に執行委員に就任したことを認めがたく、ほかに被告の右主張を肯認すべき証拠はない。

しかして、以下、杉山の具体的な組合活動に触れる。

(イ)  ステネツト事件

前出乙第一号証の二、同第二号証の三、五、十四、成立に争のない乙第一号証の九の(一)、同第二号証の六(但し四と一体)、七(但し四と一体)、同第四号証の二(但し一と一体)、三(但し一と一体)、甲第十三ないし第十六号証、証人三堀和親の証言を綜合すれば、昭和二十八年三月在庫統轄部の収納課(インカミング・プロパテイ・ブランチ)で、同課責任者ステネツト(文官)は同課の日本人労務者岸節子が仕事上失態したのを怒り、同人に「役に立たないから馘にする」と告げたこと、ところがステネツトが平素、作業上のことで日本人労務者を叱責するにも、ふたこと目には「馘にする」といつたりして、とかく横暴な振るまいが多く、これに怖気を抱いていた日本人女子労務者は、岸に同情して、善後策を講ずべく、井上時夫ら同課の日本人男子労務者その他の者の応援や参会を得て、再三終業後基地外において会合を開いた結果、岸解雇の反対に併せてステネツト及び同課の日本人監督鈴木光信の排斥を在庫統轄部の首脳に訴えることになつた(日本人女子労務者のステネツトに対する不満から紛争が生じ、その際ステネツト及び鈴木の排斥が唱えられたことは争がない)こと、しかして、右苦情の申立を受けた在庫統轄部の責任者クロツカー中佐は、収納課の職員を一堂に集めて双方から事情を聴いたうえ、岸解雇の事由がないことを確認する旨を宣して事態を収拾したこと、杉山は、右紛争にあたり、進んで井上時夫らに協力し、前記会合には毎回参加したほか、在庫統轄部の日本人労務者を個別的に勧誘して右会合に参加させる等積極的に行動したことが認められる。(ただ、被告は岸節子が当時解雇を受け、日本人労務者による、その撤回要求が認められた旨を主張し、乙第一号証の二、同第二号証の三、六、十四中には右主張に吻合する記載があるが、右記載は、たやすく措信しがたく、ほかに右主張を肯認すべき証拠はなく、むしろ、右乙号各証を除く爾余の上記証拠によつても、岸に対しては当時正式に解雇の手続が起されていなかつたので、特に解雇の撤回という措置には至らなかつたことが認められることを付言する。)

(ロ)  組合組織の結成

前出乙第一号証の二、同第二号証の五ないし七、十四、成立に争のない乙第一号証の九の(二)、同第二号証の九(但し八と一体)によれば、ステネツト事件を契機として、在庫統轄部の日本人労務者間にも、ようやく労働組合結成の気運が漲り、その三分の二の人員が前記のように労働組合としての職場組織を結成して全日駐本廠分会に加入したものであること、その間において、杉山は、阿部喜一、井上時夫らとともに、日本人労務者に対し個別的に組合結成を説得し、また右分会の佐藤書記長と連絡に当るなど積極的行動をしたことが認められる。

(ハ)  井上解雇事件

前出乙第一号証の二、同第二号証の三、五(但し後記措信しない部分を除く)ないし七、九、十四、同第四号証の二、三、甲第十三号証(但し後記措信しない部分を除く)、同第十六号証、成立に争のない乙第一号証の九の(三)、甲第二十号証、証人三堀和親、同清水満の各証言を綜合すると、軍は、前記井上時夫が余り仕事が遅く、日本人及び米人監督からたびたび仕事中の居睡りを発見され、文書による仕事上の命令に従わず、また、かつては勤務時間中髭剃りしているのを発見されたことがあるという理由により、仕事の役に立たないとして、昭和二十八年八月七日附で労管に対し同人の解雇を要求し、その頃横浜技術廠日本人人事担当官テズナー大尉から井上にその旨を通告した(井上が勤務上の成績を理由に軍から解雇を通告された点は争がない)こと、しかして、これを知つた在庫統轄部の杉山を含む職場委員は、その日の勤務終了後基地外で緊急会合を開き(その招集通知は杉山が勤務時間を藉りて行つた)、右解雇を不当として、その撤回運動を起し、その一環として軍に日本人労務者連名の嘆願書を提出することを決議し、直ちに右解雇撤回方を訴える趣旨を記載したクロツカー中佐あての嘆願書数部を作成し、その翌日井上自身が軍の許可なく在庫統轄部の基地内に持込み、まず、これに日本人労務者の連署を得るため、杉山が同日昼休時間中、各課の職場に持廻つて職場委員に配布したこと、ところが、基地内における組合活動や文書の配布が軍によつて禁止されていたので、在庫統轄部人事課の責任者ウエストホール少佐は、出荷課(アウトゴーイング・プロパテイ・ブランチ)の日本人監督三堀和親から右署名簿が職場を回付されている旨の注進を受けると、直ちに、運営課(アドミニストラテイブ・ブランチ)の日本人監督酒勾文四郎に命じて、右署名簿の回収及び事情の調査に当らせた結果、その持込、配布に関する前記経緯を知るに至つた(右署名簿が軍に回収された点は争がない)こと、そこで、同少佐は、その日杉山からあらためて事情を聴取するとともに、非合法な署名運動をしたことを理由に同人を叱責し(右事情聴取の点は争がない)、ついで、その翌日頃右酒勾がたまたま臨時昇給期を迎えた杉山のためその職場たる在庫統轄部運営課事前編輯・最終綴込係(プレエヂツト・フアイナル・フアイルス・ユニツト。作業単位第二)の責任者ロバーノ軍曹の要請に基づき労管に対する昇給要求に関する書類を作成して決裁を求めたのを却下した(昇給却下の点は争がない)ことが認められ、右認定に牴触する乙第二号証の五、甲第十三号証の各記載部分は措信しがたく、ほかに右認定を覆すに足る証拠はない。

(ニ)  組合機関紙の刊行

前出乙第二号証の三、七、九、十、十二、十四、成立に争のない乙第一号証の九の(五)、同第二号の一、同第五号証の一、二(但し一、二とも乙第四号証の一と一体)を綜合すれば、昭和二十九年四月一日開かれた組合の在庫統轄部職場大会は、同職場委員会の決定を採択して、組合の当面の目標を文化活動に置き、その一環として同職場の機関紙「はなの輪」を刊行することを決議し、前記のように、その編輯責任者に杉山を選出したこと、同人は、その後昭和三十年一月頃まで他の組合員の協力を得て「はなの輪」の編輯に当り数号を発刊したこと、その間、「はなの輪」は、組合の執行委員長内田茂吉(前出甲第十九号証)並びに右職場委員会の承認のもとに第三号から組合の機関紙に昇格して、その教育宣伝活動を助成するとともに、記事内容においても一般教養に及ぶ高級なものに発展し、また、昭和二十九年十一月には同年九月行われた後記特別退職手当についての全面ストライキに関する特輯記事を掲載したりしたこと、ところが、その後「はなの輪」の編輯委員の中には、地元警察においてその刊行を探索しているという情報を入手して警戒し始め、編輯から手を引く者も出たりして、人手不足となり、また、経費の問題も介在したため昭和三十年三月頃には「はなの輪」の刊行継続に困難が生じたので、杉山は、残留した他の編輯委員と相はかり、職場における日常的問題を取扱う新聞の発行に切替えることとし、その頃から、さような記事を登載する「職場のニユース」という週刊新聞の編輯、発行に当り、同年四月頃以降「はなの輪」を廃刊したことが認められる。

(ホ)  ランバート事件

前出乙第二号証の三、七、十四、成立に争のない乙第一号証の九の(四)によれば、昭和二十九年七月前記相模本廠機械記録部(マシン・レコード・デイビイジヨン)機械搾孔係(キイ・パンチ・セクシヨン)の責任者ランバート軍曹が同係の日本人監督で当時組合に加入していた増田美枝(右乙第二号証の十四には「森田みき」、乙第二号証の七には「はすだみちを」または「増田ゆい」と記載されているが、録取者の聞き損じか、書き損じと認める)の配置転換を企図したところ、これを不当とする日本人労務者は、対策のため、終業後杉山方に集つて職場懇談会を開き、ランバート軍曹に対する不満を訴えあい、同軍曹の排斥運動を起すことになつたこと、しかし、間もなく同軍曹は他の職場に転じると同時に、増田美枝の配置転換も沙汰やみとなつたので、右運動は表面化しなかつたこと、右事件に際し杉山は配置転換を嫌つた増田から相談を受けたので、日本人労務者に呼びかけ、自宅を提供して右懇談会開催の運びに至らせたことが認められる。

(ヘ)  特別退職手当についての全面ストライキ

前出乙第二号証の十二、十四、同第五号証の一によれば、昭和二十九年九月組合は特別退職手当に関する要求のため全面ストライキを行つたが、これに先立ち軍が就業希望の日本人労務者には寝具、食事を用意して泊込の便宜を供与すべき旨を布告したので、ピケツチング要員決定のために開かれた在庫統轄部の職場委員会は、これに対する方策として就業希望者に対する就業中止の説得並びに各課の日本人監督に対するストライキ協力方要請を行うべき旨を決定し、職制に対する右要請の担当者として杉山を指名したこと、しかして、杉山は、右決定に従い、昼休時間中、各課を廻つて日本人監督に右要請を行い、また、収納課の職場においては日本人労務者を集めて泊込の中止を説得し、越えてストライキ当日には、基地の乾門におけるピケツチングに、その隊長として参加し、附近の組合事務所から拡声機によつてピケツチング不要の放送を行つたことが認められ、右認定に牴触する甲第十三、十四号証の各記載、証人三堀和親の供述部分は、にわかに措信しがたく、ほかに右認定を覆すに足る証拠はない。

(ト)  タイピング・プール事件

前出乙第二号証の三、十、十四、甲第十三号証、成立に争のない乙第一号証の九の(八)、証人三堀和親の証言によれば、軍は昭和三十年初頃から在庫統轄部のタイプ共同作業場(タイピング・プール)において個々のタイピストの作業量及び所要時間を記録し(以上の点は争がない)、同年七月頃右措置を廃したこと、その間に、同作業場のタイピスト十八名(そのうち組合員は七、八名)は右措置のため心理的圧迫を感じるようになつたので、そのうちの一人で組合の職場委員たる大山和子の訴を受けた杉山は組合の職場委員会を招集して対策を討議し、その結果、タイピスト自身から職制に対し右措置の廃止を求めることが決定されたこと、そこで、杉山は右決定実現のためタイピストの意思統一を図ることとし、その後、昼休時間中個々のタイピストを説得したことが認められる。(もつとも被告は杉山が組織指導した結果右措置の撤回に成功した旨を主張し、右乙第一号証の九の(八)、同第二号証の十、十四中には右主張に沿う記載があるが、右記載部分は、たやすく措信しがたく、ほかに右主張を肯認すべき証拠はないのみならず、前出甲第十三号証、証人三堀和親の証言によれば、むしろ、右措置は、作業量調査の必要上実施され、予定期間の経過とともに、タイピストの苦情申立をまつまでもなく、打切られたものであることが認められるのである。)

(チ)  職種変更による個別的昇給

前出乙第二号証の一、十二、十四、同第四号証の二、同第五号証の一、成立に争のない乙第一号証の九の(十)、乙第二号証の十七(但し十五と一体)、同第六号証の一を綜合すれば、在庫統轄部の職場委員会は、日本人労務者の賃上げ方策を検討中、昭和三十年二月頃職種と職務内容との不一致を是正することによつて個別的に賃上げを要求する途があることを知り、とりあえず、その可能性のある労務者につき職種格上げの要求をなすべく決議し、直ちに、その基礎調査をなし、同年三月頃労管備付にかかる日本人労務者の賃金台帳を参酌し、職種格上げの対象として、当時計理士(アカウンタント)の職務を現実に担当しながら事務員(クラーク)の職種にあつた日本人労務者二名を選定して、労管と労働協議会において折衝し、その事前の諒解を取付けたうえ、右二名の労務者の現実の職務内容につき、その所属する日本人監督の確認を受け、これに基き、あらためて労管に右両名の計理士への格上げを要求し(右要求が組合から労管に出された点は争がない)、同年五月十一日団体交渉により労管をして右職種格上げの人事処理を行うべき旨を確約させ、その後右人事処理の実現を得て目的を果したこと、しかして、杉山は、右職種変更の運動において、組合の内藤巍、桐生増三とともに、基礎調査に当り、また、これに基く資料の作成に従事したこと、なお、その後軍が数名の日本人労務者につき自発的に職種格上げ(事務員から計理士への)を行つたことが認められる。

以上認定したところによれば、杉山は、組合の発足当時から着実に組合活動を続け、特に、職場の要求の取上げとその実現を目的とする組合員の積極的行動の組織化その他職場における一般的教育宣伝活動等いわゆる職場斗争に力を尽し、本件解雇当時は、おのずと職場における組合活動の中核的存在となつていたものと認めるのが相当である。

3  軍のこれに対する反応について

前記2(ハ)において認定したように、杉山が井上解雇の撤回運動に際して非合法な署名運動をなし、在庫統轄部人事課の責任者ウエストホール少佐の知るところとなつたことからして、杉山の組合活動が少くとも右時期に右のような形で軍の注目を惹いたことは明らかである。

しかして、さらに事情を調べると、以下のことが相当比重のある判断資料として顕現する。

イ  米兵の休憩時間中の居残り

杉山の職場たる在庫統轄部運営課事前編輯・最終綴込係においては、少くとも昭和二十九年暮頃昼食時の休憩時間中、同係所属の米兵が一名ずつ事務室内に残留したことは当事者間に争がなく、前出乙第二号証の三、九、十、十二、十四、同第五号証の一、二、成立に争のない乙第一号証の九の(七)によれば、さような事態は、前記2(二)に認定したように、杉山が編輯責任者として「はなの輪」のゼネ・スト特輯号を発行した直後の昭和二十九年十一月頃からのことであり、また、残留した米兵は杉山が事務室を外にすると、さりげなく尾行したり、その行先を杉山の同僚に尋ねたりし、杉山自身も職場において絶えず監視の眼を感じるほどであつたことが認められ、右認定に反する証拠はない。ところで、原告は、米兵の残留をもつて当時日本人労務者の昼食休憩時間との間に時差が設けられた関係上、電話応待等一般管理の支障を避けるための措置であつた旨を主張し、甲第十三号証中には右主張に沿う記載はあるが、右記載部分は、たやすく措信しがたく、ほかに右主張を肯認するに足る証拠はない。しかるに一方、前記認定のように、井上解雇事件において一応軍の注目するところとなつていた杉山は、特別退職手当に関する要求のために行われた全面ストライキにおいても、軍が就業希望者に便宜供与を実施しようとしたストライキ対策に拮抗して、職場委員会の決定に基き、日本人監督に対しストライキ協力方を要請し、また、日本人労務者に対し職場において就業中止を説得したほか、その直後には「はなの輪」の編輯責任者として、その特輯号において右ストライキに関する問題を取上げたことがあつてみれば、これと時期を接して始められた前記認定のような形の米兵の残留は、ほかに特段の事情がない限り、軍が杉山の組合活動に並々ならぬ関心を寄せ、その行動を監視するために執つた措置であると認めるのが相当である。甲第十三号証中には、「はなの輪」特輯号の発行については、これが基地内で配布された事実がないから軍も知らなかつたであろうという趣旨の記載があるが、臆測の域を出ないので、右記載は採用の限りではない。ほかに右推認を覆すに足る証拠はない。

ロ  福井和雄の配置転換と杉山の職種変更

軍が昭和三十年六月日本人労務者福井和雄を杉山の職場たる在庫統轄部運営課事前編輯、最終綴込係に他の職場から配置転換させて日本人責任者としたこと、また、軍が同年八月労管に対し杉山の職務内容が貸付事務(ローン・クラークの職務)にすぎないことを理由に同人の職種を顧問(アドバイザー)から計理士(アカウンタント)に格下げすべく要求し、一方、組合が右職種変更をもつて不当労働行為であると主張して紛争が生じたが、労管が同年九月杉山の職務内容を調査の結果、特殊飜訳(スペシヤル・トランスレーター)に格付けするのが適当であると判断し、これにつき軍の同意を得たうえ、組合との団体交渉に臨み、妥結をみないまま、同年十一月一日特殊飜訳への職種変更を実施し(これがため杉山の給与はあらたに支給さるべき語学手当を加えても従前に比し千円程度減少した)、杉山に、その旨を通告したことは当事者間に争がない。しかして前出甲第十三号証、乙第六号証の二、成立に争のない乙第七号証の一によれば、福井の配置転換は、当時事前編輯・最終綴込係の作業内容が軍予算の関係上一部縮減されたため、同係に所属したロバーノ軍曹ほか二名の米兵(トツド、チヤンバース)が服務を降りて帰国することになつたので、その代員として日本人監督を設ける必要に出たものであるが、福井の選任された事情は、運営課の日本人監督酒勾文四郎が、上司から、他の職場の米人との関係上英会話に堪能で配置転換の可能な者を選定すべき旨を指示されて、当時同課運営室(アドミニストラテイブ・セクシヨン-作業単位第一)で伝達員(メツセンジヤー)をしていた福井をこれに該当するという理由で選定上申したことによるものであることが認められ、また、前出甲第十三号証、同第十六号証、乙第一号証の二、同第二号証の十二、十四、十六、同第五号証の一、同第六号証の二、成立に争のない甲第二十三号証、乙第二号証の十七(但し十五と一体)、同第三号証の七、八、十、二十、同第六号証の一(但し後記措信しない部分を除く)、証人三堀和親、同土屋鉄彦の各証言を綜合すれば、杉山の職種変更に関し、なお次の事情が存したこと、すなわち、顧問という職種は、上級者(米人)の諮問に応じる等責任をもつてこれを補佐し、下級の日本人労務者相当数を指揮監督する職位であるが、杉山がかつて在日兵站司令部在勤中顧問に格付けされたのは当時そのような職位にあつたためであること、事前編輯・最終綴込係の業務は、相模本廠から他部隊に対する貸付器材を書類上掌握することを目的とし、出荷要求の受付事務(ログ・クラーク)、出荷要求に関し既存綴込との照合、司令部との連絡により、許可の有無を出荷前に監査する事務(プレエジター)、出荷に関する書類の整備、貸付器材返還の督促、確認、返納に関する書類の整備をする貸出事務(ローン・クラーク)及び完結書類の最終整理に関する事務(フアイナル・フアイル・クラーク)から成り(甲第二十三号証、乙第三号証の八参照)、杉山は、福井の配属前においては、プレエヂター及びローン・クラークの職務に従事し、福井配属(計理士の資格で)後は、プレエヂターの職務を同人に譲り渡したものであるが、その業務は、通じて、他の日本人労務者を監督することを要求されず、ただ、英文による書簡の往復、電話による米人との連絡を伴うため英文の解読、作成及び英会話につき相当高度の技能を要求されたこと、在庫統轄部の責任者ニユートン少佐は、貸付器材に関する他部隊からの照会により、事前編輯、最終綴込係につき貸付事務の処理状況を調査し、杉山に種々質問したところ、満足すべき回答が得られなかつたので、杉山が顧問の名に値しないとし、前記理由をもつて、運営課の日本人監督酒勾文四郎に杉山の職種を事務員(クラーク)に格下げすべく要求し、酒勾がその上級職たる計理士を相当とする旨の意見を具申したのを取上げず、運営室の責任者グレイ中尉に事務員への職種変更手続を進むべく指示したが、グレイ中尉は、その後酒勾の意見を採用し、結局ニユートン少佐の承認をも取付けて、労管に計理士への職種変更を要求したものである(これが実現すると杉山の給与は従前に比し一万二、三千円程度減少する)こと、労管は、組合と同年九月から十月にわたり団体交渉を重ね、その間において、前記経過で特殊飜訳への職種変更をすることとし、もし不服ならば退職の途が残るのみであると説明して組合の諒解を求め、組合が第二次的に提示した杉山の職務内容に合致する職種の新設要求をも拒否し、さらに、最終的には、組合の提案に従い、杉山を当時たまたま顧問の職位が空席になつていた他の職場に配置転換すべく軍に要請し、これが実現をみなかつたので、同年十月二十八日組合に対し、かねて提示の職種変更を実施すべき旨を通告して団体交渉を打切つたものであること、軍はこれよりさき昭和二十九年九月二十四日日本人労務者の職務内容とその職種との調整に伴う降格、職種変更に関し、下級職位への職種変更は配置転換により可及的に避け、これが不可能の場合にも、新職種の給与としては可能な範囲で減給を避け、格下げに応じない労務者には退職を認め、この場合現職種による退職手当を支給する等の方針を定めていたが、たまたま、前記2(チ)で認定したように、組合の要求に端を発して一部の日本人労務者につき職種格上げを実現させたところから、その逆方向をもつてする職種調整の必要性についても当時関心を新にしていたものであることが認められ、右認定に牴触する乙第六号証の一の記載部分は採用しない。

以上によれば、福井の配置転換並びに杉山の職種変更は、いかにも筋の通つた人事管理で少しも間然とするところがないかのごとくみえるけれども、さらに諸般の関係を省察すると、腑に落ちない点が存し軍の特別の意図の介在が窺われる。すなわち、

まず、軍が福井を米兵の後任として事前編輯・最終綴込係における日本人責任者に擬した理由は、同人が英会話に堪能で配置転換が可能であるという点にあつたのであるが、前記認定のように、杉山は昭和二十七年九月以降英文の解読、作成英会話の高度の語学力を要求されるプレエヂター、ローン・クラークの業務に従事していたのであり、その間、同人が語学の面で能力に不足したことを認むべき証拠はなく、それどころか、前出乙第一号証の二、同第二号証の九によつても、同人は右業務上、上級司令部の将校との口頭連絡、他部隊の責任将校との書簡による連絡に当るにつき、なんら不自由を感じなかつたものであることが認められるのみならず、杉山は、前出甲第一号証によつて認められるとおり、当時年令も三十九才であつて、前記認定のように、昭和二十一年五月入職し、在日兵站司令部在勤中には日本人労務者の監督をした経験を有し、これがため昭和二十四年七月には顧問に格付もされていたのであり、相模本廠に転属後、事前編輯、最終綴込係においては、その主要業務と考えられるプレエヂツト、ローン・クラークの職務につき当時既に三年近くの経験を有したのであつてみれば、その職場の日本人責任者に、同人を除外して、前出乙第七号証の一によつて認められるように昭和二十七年九月の入職で年令も二十八才にすぎない福井を移入すべき必要がどこにあつたのか諒解に苦しまざるを得ない。甲第十三号証には、杉山は英会話において福井に劣つた旨の記載があるが、仮に、それが事実としても、その優劣が人選を左右する決定的理由となるほど格段の差をもつたものである趣旨には、とうてい理解し得ない。第一、軍が杉山を候補に上せて評定したような事実は証拠上その存在を認めがたいから、福井の語学力との比較がなされたものとは考えられないのである。従つて、杉山の作業状況もしくは責任者たる器量が問題とされる場面があつたとも考えられない。してみると、前記イで認定した軍の態度に徴し、ほかに特別の事情がない限り、軍は事前編輯・最終綴込係の日本人責任者を選定するにあたり一応候補に上せてしかるべき杉山を、同人が組合活動家なるが故に嫌つて、あたまから疎外したものと認めるのが相当である。

つぎに、ニユートン少佐が杉山の職種を顧問から事務員に格下げすべく指示した理由は、事前編輯、最終綴込係につき貸付事務の処理状況を調査し、杉山に質問を試みたのに満足な回答が得られなかつた点にあつたのであるが、右調査がどの範囲にわたり、どのような内容の質問がなされたか、証拠上知る由もないとともに、杉山が前記認定のように、当時まで三年近くもローン・クラークの職務に従事した間に、その作業状況に非難さるべきものがあつたことは、これを具体的に認むべき証拠がない以上、杉山がニユートン少佐の質問に対し満足な回答をしなかつたからといつて、それだけで杉山のローン・クラークの作業自体に過誤、失態があつたものと考えるのは早計であつて、甲第十三号証、同第十六号証の記載、証人土屋鉄彦の証言中、杉山の作業が全般的に粗雑で失態が多く満足すべき状況になく、これが降格の理由となつた旨の記載ないし供述部分は、たやすく措信しがたい。すなわち、降格の理由は、杉山に要求されるローン・クラークの作業内容自体に存したことは解し得ず、ここでは、むしろ、前記認定の顧問という職種の定義に従う限り、杉山の職務の性質が上級者の諮問に応じるという顧問的要素を欠き、また現実にも同人が上級者の諮問に応じ得なかつた点にあつたものと解しておくほかはない。しかしながら、杉山の職務は、右のように顧問的要素に乏しく、事務的な面が多かつたとはいえ、前記認定のように、英語を駆使した上級司令部または他部隊の将校と口頭または書簡による連絡を執るという業務を伴う以上、労管が前記認定のように、いみじくも格付相当と判定した特殊飜訳の職務とみるならば、ともかく、単なる事務員の職務とみるには余りにも酷に失する特殊の要素を含んでいることは明らかである。右判断と相容れない甲第十五、十六号証の各記載は採用しない。加えて、杉山は、当時、右に説示したように、顧問の名に値する職務に従事していなかつたとはいつても、顧問に格付けされてから既に六年余を経ていることは前記認定によつて明らかである。しかるに、ニユートン少佐は、これらの点になんら留意することなく、さらにいえば、日本人労務者の職種調整を行う場合には配置転換により可及的に降格を回避するという前記認定の軍の方針さえ考慮せず(考慮した形跡は証拠上認められない)、一途に事務員への職種格下を実施しようとしたのであつて、それかあらぬか、前記認定のように、当時既に杉山の職場には福井が配置され、前出乙第一号証の二、同第七号証の一、甲第十三号証、証人土屋鉄彦の証言によれば、福井は軍の命令により杉山が従前従事していたプレエヂツト、ローン・クラークの職務内容を習得していたことが認められ、杉山が降格に不同意を唱えて退職することがあつても、あたかもよく、作業に支障が生じないような態勢は調つていたのである。してみると、ほかに特別の事情がない限り、前記認定のように、軍が杉山の職場における日本人責任者の選任から組合活動家と目する同人を疎外した意図は、なお持続され、ここにも同人降格の動機として潜在したものと認めるのを相当する。

4  上記1ないし3において説示したところを、かれこれ綜合考量すると、杉山巌に対する本件解雇は、アメリカ合衆国の保安上の利益に反するという表面上の理由を付しながら、実は、軍において、かねて組合活動の故に着目していた杉山を基地外に排除しようとする意図をもつて支配的動機としたものと認めるほかなく、原告が軍の要求に基き杉山に対してなした右解雇は労働組合法第七条第一号の不当労働行為にあたるものというべきである。

したがつて、被告が、組合からなされた救済申立を棄却した初審命令を審査し結局当裁判と同様の判断のもとに右命令を取消して本件救済命令を発したこと自体にはなんらの違法もない。

三  ただ、被告が右救済命令を発するよりさき、相模原労管所長が杉山に対し昭和三十三年十月十一日附で同月十二日限り解雇する旨の通告をなしたことは当事者間に争がなく、成立に争のない甲第十号証の一、同第二十三、二十四号証、同第二十五号証の一、二、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認める甲第六、七号証、同第八号証の一の一、二、同号証の二ないし九、同第九号証の一、二、同第十号証の二、証人滝村幸雄の証言によれば、右解雇の経緯として次の事実が存すること、すなわち、杉山が第一次の本件解雇当時所属した作業単位たる在庫統轄部運営課事前編輯・最終綴込係が、その後数次の組織変革により、昭和三十三年七月一日以降総合補給廠技術補給局技術部補給処理管理室管理課文書統轄係(ゼネラル・デポー、アシスタント・フオア・エンヂニヤー・サブライ・オペレーシヨン、ゼネラル・エンヂニヤー・デイビイジヨン・デイレクター・オブ・サブライ・マネヂメント・オペレーシヨン・サポート・ブランチ、ドキユメント・コントロール・セクシヨン)となつていたこと、しかして、右補給廠司令部が同年八月十四日作業量減少のため日本人労務者に過剰が生じたとして、相模原労管所長に日本人労務者の整理解雇を要求し、労務者の現在員から使用継続を必要とする人員を控除した整理人員を示したが、これによると、右管理課における整理人員が特殊飜訳一名、技師一名、計理士七名、事務員一名であつたこと、ところが、当時同課に在籍した特殊飜訳が青山清亮一名であつたこと、そこで相模原労管において同課の特殊飜訳一名が整理の対象となつたことをもつて、同課については、も早や特殊飜訳という職種の使用継続を必要としない趣旨に出たものであつて、もし杉山が当時在職したとすれば、同課の特殊飜訳の整理人員としては都合二名が提示され、同人も整理の対象たるを免れなかつたものと推量し、軍の要求する人員整理の趣旨を貫徹するため、被告の判断如何により万一にも杉山の復職を命じられることがあるのに備え、被告の審査中、第二次の前記解雇の措置を講じたものであることが認められるので、被告が本件救済命令において神奈川県知事に対し、本件解雇の取消に併せ、右解雇当時と同等の職務、待遇の保障される職への復帰及び右解雇時から復職時までに支給さるべき諸給与相当額の支給を命じた点が右第二次解雇との関係上、原告主張のように違法であるか、否かについて言及する必要がある。思うに、労働委員会による不当労働行為の救済は不当労働行為自体もしくはその結果を端的に排除して、労働者のため、これがなかつたと同一の事実状態を形成、回復させる行政処分であつて、その処分内容については合目的的見地から肯定される限りの救済手段が労働委員会の自由裁量に委ねられているのである。したがつて、不当労働行為にあたる解雇については、その原状回復の手段として労働者の職場復帰に合理性があるからには、労働契約関係が私法上なお存続するか否かの判断に立入ることなく、復職を内容とする救済命令を発することも当然に許されてしかるべきものと解しなければならない。すなわち、労働委員会による救済手段の取捨選択において、解雇が不当労働行為の故に無効であり、これがため労働契約関係が存続しているというがごとき私法上の法律関係を裁量の前提とすべき筋合は少しもないのである。これを推すときは、不当労働行為にあたる解雇に続き第二次の解雇が行われたがため、私法上はいかにしても労働契約関係が終了したとみるべき場合においても、労働委員会がかような法律関係を超絶して復職を命じる趣旨の救済命令を発することも、次第によつては、あながち裁量権の逸脱と評し去ることはできないであろう。

本件について、これをみると、杉山に対してなされた前記第二次の解雇は軍が基地において実施した人員整理の趣旨を体して講じられた措置であり、また、右人員整理は減少した作業量に見合せ、日本人労務者の現在員の職種別に整理人員を指定して行われたことに徴すると、その具体的職務内容を当然の基礎条件としたものと推認されるところ、前出甲第二十三号証によれば、杉山が第一次の本件解雇当時所属した前記作業単位においては、従前同人の担当した器材貸付事務(ローン・クラーク)は右解雇後、事前監査事務(プレエヂター)担当の計理士(但し昭和三十一年五月中、特殊技術者の職種に昇格)福井和雄が兼任し、昭和三十一年一月以降は事前監査事務の補助者として事務員一ないし三名(概ね二名)が配置されたが、軍から前記人員整理の要求がなされる直前の昭和三十三年八月十二日までには右事務員はすべて他の職場に転出し、その後任の補充もなく、結局福井が単独で事前監査に兼ねて器材貸付事務を執り、軍の右要求の直後たる同年九月中には福井が退職し、その後任として庶務主任遠藤治男が配置されたこと、これから推して、軍の右要求当時、事前監査及び器材貸付事務についても作業量が減少していたためもし杉山が本件解雇を受けずに右作業単位に在籍し、器材貸付事務を担当していたとすれば、あるいは事前監査の補助者として配置されていた右事務員と同様、杉山か福井かのいずれかが他の職場に転出させられていたやも計り知れないこと、一方、右作業単位において杉山の右解雇後特殊飜訳の職種に在つたのは青山清亮一名であるが、同人は完結書類最終整理事務(フアイナル・フアイル・クラーク)を担当し、事前監査及び器材貸付事務とは少くとも直接には関係がなかつたこと、したがつて、また、これから推せば、右作業単位につき軍が特殊飜訳一名を整理人員として提示したのは完結書類最終整理事務の専任担当者を将来必要としない趣旨に出たものと解する余地があることが認められるから、かれこれ考え併せると、相模原労管が杉山に対する第二次解雇をなすにあたり、その前提条件として推量したように、本件第一次解雇当時職種こそ特殊飜訳であつたが実は器材貸付事務を担当していた同人が、もし右人員整理時在籍したとすれば、当然その対象とされ、右作業単位における特殊飜訳の整理人員としても都合二名の提示がなされたであろうと推断することは、あくまでも仮定論の範囲に止まり、とうてい事物の蓋然性を捉えたものとは解しがたい。さればとて、ほかには杉山が基地内の、どのような作業単位に在籍していたとしても、必ず人員整理の対象となつたに違いないと認むべき根拠ないし資料はなにひとつ見出せない。これから、ひるがえつて考えれば、杉山が本件第一次解雇を受けた結果、右人員整理当時現実に軍の基地に在籍しなかつたことが、とりもなおさず同人に対する第二次解雇の唯一の理由となつた、右のような単なる仮定的推量を許す因をなしたものと解するほかはないのである。

果してそうだとすれば、不当労働行為にあたる本件第一次解雇の結果を排除するため、単なる仮定的推量に基づく杉山に対する第二次解雇の事実を超越して、前記のように職場復帰及び諸給与相当額の支給を命じる趣旨の救済命令を発することは、合目的的見地からも、ゆうに肯定し得るところであつて、本件救済命令に原告主張のような違法があるとはなしがたい。

四  よつて、右救済命令の取消を求める原告の本訴請求は失当として、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 吉田豊 駒田駿太郎 北川弘治)

〔参考〕

命令書

再審査申立人 全駐留軍労働組合神奈川地区本部相模支部

再審査被申立人 神奈川県知事

右当事者間の昭和三十二年(不再)第三十六号事件につき、当委員会は、昭和三十四年三月四日第三百三十三回公益委員会議ならびに同年三月十八日第三百三十四回公益委員会議において、会長公益委員中山伊知郎、公益委員吾妻光俊、同中島徹三、同兼子一、同石井照久、同林武一、同藤林敬三出席し、合議の上、左のとおり命令する。

主文

一、初審命令を取消す。

二、再審査被申立人は、杉山巌に対する昭和三十年十二月十九日付解雇を取消し、同人を解雇当時と同等の職務と待遇の保障される職に復職させ、かつ解雇の日から復職に至る間に同人が受けるはずであつた諸給与相当額を同人に支払わなければならない。

理由

第一当委員会の認定した事実

(杉山巌の解雇に至る経緯)

一、再審査申立人全駐留軍労働組合神奈川地区本部相模支部(以下組合という。)の組合員杉山巌(以下杉山という。)は、再審査被申立人神奈川県知事に雇用され、在日米軍YED相模本廠(以下相模本廠という。)に勤務するいわゆる駐留軍間接雇用労務者であつた。

杉山は、昭和二十一年五月駐留軍在日兵站司令部技術課に入職し、昭和二十四年三月一日付正式にアドバイザー(顧問)に格付けされ、昭和二十七年九月に相模本廠に転属し、ストツク・コントロール・デビジヨンにおいてアドバイザーとして勤務していた。

ところが、杉山は、昭和三十年十二月十六日相模原渉外労務管理事務所長(以下労管所長という。)から同月十九日付をもつて解雇する旨の通知をうけた。

右解雇の理由は「保安上の理由」であるとされたほか、その具体的内容は明らかにされていなかつたが、右解雇に先立つて、昭和三十年十月四日調達庁長官は、在日極東陸軍司令官から杉山に関し、労務基本契約附属協定第六十九号第一条(a)項該当の容疑について意見を求められ、調査の結果、同年十月十八日極東陸軍司令官に対し、杉山は同協定第一条(a)項(3)号に該当する旨の意見書を提出した(ただし、当審においては同協定第一条(a)項(2)号に該当の主張もなされた。)

なお、杉山は、同協定第六条に基づき昭和三十一年一月六日付文書をもつて訴願したところ、同年四月三日訴願は却下された。

(杉山の組合活動)

二、昭和二十八年三月の後記のいわゆるステネツト事件を契機として同年五月杉山の職場ストツクコントロール・デビジヨンにおいて、杉山ら二・三名が中心となり組合が結成され、ただちに全日駐相模本廠労組に加盟したが、杉山は職場組織の金融委員、職場委員となり、同年八月から翌昭和二十九年四月まで執行委員であつた。執行委員辞任後は、支部委員として支部機関紙『はなの輪』あるいは『職場ニユース』の編集責任者となり、昭和三十年五月以降解雇にいたるまで職場委員であつた。

この間組合組織に改編があり、全日駐相模本廠労組は、昭和二十八年十二月、全駐労と統一し、翌二十九年三月には、相模原地区の駐留軍労組が合同し、全駐労相模支部となつた。

この間、杉山は、次のような組合活動を行なつた。

(1) 昭和二十八年三月、杉山の属するストツク・コントロール・デビジヨンのインカミング・ブランチにおいて、同ブランチの長であるステネツトに対し、女子職員の不満が爆発し、抗議運動が起きたとき、同人は、阿部喜一、井上時夫とともにこの抗議運動を組織化し、ステネツトおよび日本人の監督者鈴木の追放ならびにステネツトにより不当解雇された岸節子の解雇撤回を要求して強硬に争つた。

結局、この運動は、岸節子の解雇撤回が認められたにとどまつたのであるが、杉山は、この運動の過程から、職場の組合組織化の必要を痛感し、前記両名とともに日本人従業員に訴え、同年五月事務系の職場に組合を組織することに成功した。

(2) 昭和二十八年七月、前記井上時夫が勤務成績不良を理由に解雇を通告されたので、ステネツト事件の責任による不当解雇と考えた組合員の解雇撤回闘争が起きたとき、杉山は、その先頭にたつて闘い、たまたま闘争の一環として行なつた井上救済の署名簿の一部を軍にとりあげられたことから、杉山はデビジヨンの人事係の長であつたウエストフオール少佐から喚問をうけ、事情を聴取される等のことが起つた。

この事件の直後、杉山は、軍の示唆により臨時昇給の手続がとられていたのが、突然却下された。その理由は、同人の属するセクシヨンの長であるサージヤント・ロバーノの言によれば、井上救済運動事件の責任によるということであつた。

この井上事件により、職場に動揺が起り、また、井上の解雇、阿部の病気欠勤等により組合組織に大きな影響があつたので、杉山は、同年八月執行委員となり、休憩時間を利用して、職場を歩きまわり、組織の再建強化に努めた。

(3) 翌昭和二十九年春の職場大会で、組合活動の重点が文化活動におかれることとなり、同年五月機関紙『はなの輪』が発刊され、杉山は、その編集責任者として、活溌な情宣活動を展開した。

ことに昭和二十九年十一月には、九月にあつた特別退職手当立法化要求ゼネスト(以下特退手ゼネストという。)に関する特集号を発刊し、軍の労務管理を正面から批判した。

この直後たる昭和二十九年暮頃から、昼には食事のため外出する米兵が、必ず一人は職場に居残つて休憩時の杉山の行先をたずねたり、同人を訪ねてくる組合員の氏名をチエツクするようになつた。

(4) 杉山は、前記特退手ゼネストには、組合の代表者として、また、組合の唯一の年輩者として、職場の各ブランチの日本人監督者に個別的に折衝し、ストへの協力を要請、ストでは乾門のピケ隊長となつて活躍した。

(5) 昭和三十年初めごろから、タイピング・プールにおいて、監督者がタイピストの仕事の量と所要時間を一々記録するという事態が起き、タイピストらが、職場委員であり実質上の職場代表者であつた杉山に、その苦痛を訴えたので、杉山は闘争に不馴れな女子職員を半年にわたり組織指導し、同年七月遂に右の措置を撤回せしめるのに成功した。

(6) 昭和三十年三月には、組合が、当時行きづまつていた賃上げ闘争を職種変更(以下職変という。)による昇格で個別的に達成する方針を定め、職変による賃上げ闘争を展開したとき、杉山は、職変要求者の資料作成に従事する等積極的に指導した。

(杉山の格下げ等について)

三、杉山は、前記認定の如く、組合活動を行なつていたのであるが、昭和三十年六月、突然杉山の職場に、別のセクシヨンから、組合に入つていない計理士福井和雄(以下福井という。)が、セクシヨンの日本人責任者として配転され、杉山の仕事を見習うようになつた。

同年八月、軍は突然労管に対し、杉山の職務内容が単なるローン・クラーク(貸付事務員)であつて、アドバイザーとしての職務とは認められないとして、アドバイザーから計理士に格下げを要求した。

組合は、この格下げ要求を、軍が杉山の組合活動を嫌悪した不当なる圧迫であるとして、労管に撤回を要求し、団体交渉を行なつた。

一方、労管は、軍から格下げ要求をうけ、九月中旬に杉山の職務内容を二回にわたり現地調査した結果、軍側の要求する計理士とも認められなかつたので、給与の上で一千円余の低下にとどまる特殊翻訳を妥当な職種と考え、軍の同意を得て、団体交渉にのぞんだのであるが、度重なる団交にもかかわらずあくまでアドバイザーである旨主張する組合と意見の調整がつかないまま、労管は、同年十一月一日付で杉山を特殊翻訳に職変する旨の通知を発し、一応この問題は落着した。

杉山は、特殊翻訳に職変された結果、必要となつた語学手当(杉山は基本給の四〇%の語学手当の支給をうけていた。)の申請を行なつたところ、人事係の長であるルテナン・ヒガはその必要なしとして拒否し、十一月分の給料支払日には語学手当を受領できず、後に追給された事実が認められる。

(杉山の予備的解雇について)

四、再審査被申立人は、杉山の解雇当時、同人の職場は、SCDIGE・アドミニストラテイーブ・ブランチNo2であつたが、その後数回にわたり機構の変更、配置換があり、現在同人の職場はDSM・GEデビジヨン・オペレーシヨン・サポート・ブランチのドキユメント・コントロール・セクシヨンである、と推定している。

昭和三十三年八月十四日、軍は作業量の減少に伴い各職場毎に各職種毎に一名ないし数名づつ同デビジヨンでは合計三六名の人員整理を行なつた。杉山が所属するとされた右ブランチの特殊翻訳一名(右ブランチには特殊翻訳は青山清亮一名のみであつた。)は九月三十日をもつて解雇されたが、この解雇に関連して、再審査被申立人は、仮りに現在も杉山が在職していたとすれば、同人は労務基本契約に定められた先任逆順による人員整理基準の第一番目に位置することになり当然に整理対象者に含まれていたとして、杉山に対して同年十月十一日付で、十一月十二日限り予備的に解雇する旨の通知を行なつた。

なお、この予備的解雇に関連して、再審査申立人は、昭和三十三年十二月十五日付で杉山が復帰すべき原職について、初審以来解雇時の職としていたのを、昭和三十年十一月一日付の同人に対する職変以前の職、すなわちアドバイザーとすること、併せてバツクペイについても同時点まで遡るように救済内容を変更する旨の申立を行なつた。

第二当委員会の判断

一、杉山は、前記認定の如く、組合結成から解雇に至るまで、職場の実質上の責任者として活溌な組合活動に従事していたものであり、特に井上事件の直後、杉山の臨時昇給の手続が却下され、その理由は井上事件の責任によるとサージヤント・ロバーノが言明したこと、昭和二十九年暮頃から、杉山の職場活動に対する軍の監視が一段と厳しくなつたこと、また、昭和三十年六月に、杉山の職場に、組合に入つておらずかつ杉山より若輩の福井が責任者として配転され、八月には月収で一万円近い減収となる計理士に格下げ要求があつたこと、しかも、特殊翻訳に格下げされた杉山が提出した語学申請をデビジヨンの人事係の長であつたルテナン・ヒガが拒否したこと、等の諸事実から判断すると、軍が、杉山の組合活動に着目し、嫌悪していたことは、推認するに難くないところであつて、不当労働行為の意図の存在を認めるに十分であるといわなければならない。

なお、再審査被申立人は、杉山の格下げについて、当時在日米陸軍セントラル・コマンド司令部から、昭和二十九年九月二十四日付文書をもつて各軍施設司令官あてに出された「職務と職務内容の適正化」方針に基いたものであつて、なんら杉山の組合活動を嫌悪しての不当なる圧迫ではないと抗弁するが、杉山は、駐留軍労務者としてその実歴は満十年近くに及びしかもその間六年もアドバイザーの職にあり、また相模本廠における三百人近いアドバイザーのうちにこの方針に基づいて格下げとなつた者は存しなかつたこと、またたとえこの方針に基き格下げを行うにしても、同方針の実施要領に示されている現給保障の考慮から、他のアドバイザーの職に配置換の手段をまず講ずべきであるのに、突然一万円近くも減収となる計理士へ職変要求がなされた事実等から判断するとこの抗弁を採用することは困難であるといわねばならない。

さらに再審査被申立人は、前記職変について、「現地部隊において保安上の理由に藉口して杉山を解雇する意思を有していたとすれば、あえて解雇の直前職変の手数を煩わす必要はなかつた」旨の主張をするが、右職変が客観的に妥当な措置とみられる場合は格別、前記認定のように、軍の不当労働行為の意図に基ずく結果であり、かつその意図の大半が挫折したとみられる本件の如き場合には、右主張をそのまま首肯するわけにはゆかない。

二、一方、再審査被申立人側は、杉山の解雇理由は「保安上の理由」であり、調達庁長官においても調査の結果、杉山は破壊的団体の構成員である或る特定の者と親交があり、昭和三十年二月から六月の間、相模原市内で開催された破壊的団体の下部組織主催の会合にしばしば出席していたとの結論を得、軍側に対してその旨回答したというのであるが、これを裏付ける証拠はもちろん具体的説明すらなく、またこれ以上の事実も存しないのであるから、調達庁長官の同意あるをもつて、ただちに本件解雇が保安上の理由によるものであるとは認め難く、軍側が反組合的意図を有し、杉山の組合活動を嫌悪していた前示諸事実に徴すれば、保安上の理由に藉口して、活溌な組合活動の故に解雇した不当労働行為であつて労働組合法第七条第一号に該当するものと判断せざるを得ない。

三、以上のとおりであつて、再審査申立人の申立には理由があり、これに反する判断を下した初審命令は取消しを免れない。

なお、再審査被申立人は、前記認定のとおり、人員整理の結果、杉山がいたであろうとされる職場で解雇された特殊翻訳青山清亮よりは先任逆順による先順位にあるとして、杉山を予備的に解雇し、従つて仮りに同人が救済されるにしても、その限度は同時点までである、という趣旨の主張をする。しかし、この主張が成立するためには、少くとも、杉山が引きつづき在籍したならば杉山が人員整理時まで特殊翻訳の職種であつたであろうこと、杉山が再審査被申立人の主張するとおりの職場にいたであろうこと、その職場の職種別人員配置が再審査被申立人の主張どおりであつたであろうこと、等の諸仮定が必要である。ところが、問題となつている職場を構成している事務系労働者は、杉山の職変問題にみられるように、職種と職務とが必ずしも一致していなかつたこと、杉山の保安解雇時と人員整理時との間に数回にわたり職場の編成替えが行われたこと、等の諸事実からみても、前記諸仮定が必ず成り立つものとはなしえない。換言すれば、今回の人員整理は、基地閉鎖、施設閉鎖等による融通性に乏しい一斉整理の場合と異り、作業量の減少に基づき各職場毎にかつ各職種毎に一名ないし数名の人数を指定して行われた一部整理であつたのであるから、必ずしも杉山が解雇されたであろうとする必然性を伴うものではなく、一方、杉山が解雇時まで従事してきた職務はその後特殊技術者福井らによつて引きつがれて現在に及んでいる事情を併せ考えると、杉山の復職を不能とする事態にあるものとは認めえず、再審査被申立人のこの点に関する主張は採用しえない。

また一方、再審査申立人は、再審において第三回審問終了後杉山が復帰すべき職として初審以来解雇時の職としていたのを、昭和三十年十一月一日付の同人に対する職変以前の職とすることに救済内容の一部変更の申立を行なつたのであるが、この申立が前記再審査被申立人の予備的解雇の主張に関連して行なわれた事情に徴すれば、本件救済としては主文第二項のとおりでその目的を果しうるものと考える。

よつて、労働組合法第二十五条、同第二十七条および中央労働委員会規則第五十五条を適用して主文のとおり命令する。

昭和三十四年三月十八日

中央労働委員会

会長 中山伊知郎

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